久しぶりに・・・本当に久しぶりに詩の解説をしたいと思います。


わたしは詩を書くとき、できるだけそれは「限定されていないみんなへのメッセージ」であってほしいと

思っています。
「読むとみんなが元気になる詩」を最大のテーマにしているのもそのためです。
(実際はどこまで達成できているかなんてわかりません!)
でも人間、やっぱり誰かに対する特定の感情を持っているわけでして。
この作品はそんな感情を言葉にしたものです。
そんなわけで、解説も私的な文章になるかと思いますが、ご了承ください。


「othello」へはコチラから


この作品をつくるのには大変な時間がかかりました。
推敲は記憶では6回。1週間かかりました。
伝えたい特定の相手が実際にいますので、「言葉の責任」というものが常に念頭にありました。
―「限定されていないみんな」にメッセージを送るときは、わたしは一体どれほど「責任」を感じられ

ているだろう?
少し考えさせられたりもしました。


ではこのへんで、本文に関して・・・


わたしたちは生きている限り誰かとぶつかるものだと思います。
意見の食い違い。価値観の食い違い。
それらが発展していがみあうに至ることもあります。
ですがわたしは争うことが苦手なので、できるだけいつも自分から相手に歩み寄るようにしています。


では、もし自分が間違っていたことを認めたとき、
或いは相手が自分に対して謝ってくれたとき、
2人の関係は対等でなくなってしまうのでしょうか。


よくケンカをしたときに、どちらも引き下がろうとしないのは、
引き下がると自分が「負け」だという意識があるからだと思います。


確かに自分の行いに対して謝罪するのは気が滅入ります。
プライドもありますし、自分が良かれと思ってしたことを否定することになりますから。


でもわたしは「負け」だとか「勝ち」だとかは思いたくない。
相手の心も体もズタズタに傷つけてしまったならまだしも、
謝って済むことならば、心から「ごめんなさい」を言えば
そこから2人はそれぞれが思うように生きる権利があると思うのです。
それぞれが幸せに生きる権利があると思うのです。


2人にはもう「勝ち」も「負け」も、もしくは「善」も「悪」も
どんな差もないはずだからお互いが幸せになるために別々に生きましょう。


「もうゲームじゃないの」

このひとことに込めた意味です。


「ごめん」と言えば済むなんて書くと、独りよがりに聞こえるかもしれません。
ですがこの作品は弁明のために書いたわけではないということを信じてもらいたいです。
なぜなら「othello」はあくまで自分じゃない人のために紡いだ言葉だからです。


わたしは今までに多くの罪を犯してきてしまいました。
でもそれらさえも許してくれた人がいました。


わたしはその人に何もできなかったけれど、何もちゃんと伝えられなかったけれど、
せめてこの文章を読んでくれていますように。


あなたの幸せを願っています。
言葉にすると軽くなりすぎてしまうのがどうしようもなくもどかしいけれど、
未来があなたを守りますように。


これからもずっと、誰かに希望を与えられるような優しいあなたでいてください。